ブルズ1度目の3連覇から20年

ブルズ1度目の3連覇から20年

6月20日が何の日かご存知でしょうか?ブルズが一度目のスリーピートを達成した日なんです。1993年6月20日、フェニックスにて行われた第6戦。パクソンのあの歴史に残るシュート。あの日です。今日はその20周年!はやいものですね。

ブルズの本家サイトはこの20周年でいくつか記事をのせているので、その内の92-93シーズンを振り返る記事を翻訳してみました。長文ですので時間のある時にでもどうぞ!

以下翻訳

20年という年月が立ちシカゴ・ブルズが2度スリーピートを成し遂げたという歴史があるため、チーム3度目の優勝は当然の結果だったと思いがちだ。

しかし3連覇を達成するNBA史上3チーム目への道はとても長く険しい道で、結果的にバスケットボール最大のスターを早すぎる引退へと追いやった。

1992年6月16日、2連覇を成し遂げ(シカゴ・スタジアムでの優勝は初)82勝(レギュラーシーズンは67勝15敗)したチームの気分はかなり高揚していた。グラント・パークで行われた勝利を祝う夏の祭典でビル・カートライトは1つの約束をした。「また帰ってくる!」と。スコッティー・ピッペンは「3連覇しよう!」と更に一歩踏み込んだ。そして自虐的なセンターのウィル・パデューはファンにこの詩を送った。

The first time was neat.
1回目は良かった。
The second time was one heck of a feat.
2回目はとてつもない偉業だった。
This time I had one hell of a seat.
今回は良い席で見れた。
The third time will be oh-so-sweet.
3回目はそりゃー素晴らしいだろう。

しかしシカゴのスター選手の要であるマイケル・ジョーダンとピッペンは1992五輪のドリームチームの一員としてのミッションを成し遂げる為にグラント・パークを後にした。ブルズが来年の6月に3連覇を目指すのであれば、五輪を挟むことで21ヶ月連続止まることもなくバスケットボールをしなければいけないという事を意味していた。そしてカートライトとガードのジョン・パクソンの両先発メンバーはオフシーズン中に怪我の手術をすることが決まっていた。

スコッティー・ピッペン 1992-1993年
Jonathan Daniel/NBAE/Getty Images
シカゴ、バルセロナでの試合、術後室以外でも懸念がいくつもあった。パット・ライリー率いるニューヨーク・ニックスは、ブルズが倒したばかりのデトロイト・ピストンズのバッドボーイズさながらのプレイで急成長中だった。オールスター級の戦力を誇るチャールズ・バークレーがフィラデルフィアから西の強豪として頭角をあらわし始めていたサンズに移籍し、一気に優勝候補になった。数シーズン前にMJ率いいるブルズに決勝への道を阻まれたセントラル・ディヴィジョンのライバルであるクリーブランド・キャバリアーズも復讐のチャンスを伺っていた。ジョーダンとピッペンのドリームチームのチームメートであるマジック・ジョンソンまでもが「もし(ブルズが)2連覇するのが大変だったと思っているなら、3連覇するのはこれまで経験してきた事でもっとも大変な事だったと思うことだろう」と不吉なコメントを残した。

1992-93シーズンが開幕する前にチーム内での不和が王者を襲った。フィル・ジャクソンHCが金メダリストであるジョーダンとピッペンに疲労を感じ、トレーニングキャンプで2人への要求を少し緩めた事が、見落とされがちな3人目の戦力であるホーレス・グラントから不満を買った。しかし実際には休息は多少の効果しかなく、MJはシーズン中つねに土踏まずと手首の怪我に悩まされ、ピッペンは足首の怪我をひきずることとなった。ジャクソンは82試合ものシーズンをやり通すために少し守備の勢いを落とすように指示をしたが、ジョーダンが手を緩める事で得られるものより失うものの方が多いとの理由で拒否した。

怪我から復帰したパクソンとカートライトもそれぞれの問題を抱えtあ。パクソンは先発の座をB.J.アームストロングに奪われた。アシスタントコーチのジョニー・バック氏が導入した攻撃的なディフェンスにアームストロングの方がはまりが良かったのだ。(アームストロングは先発としてオフェンスでもその実力を見せつけることとなる。スリーポイント45.5%はリーグトップで、プレイオフでは51.2%という驚異的な数字を残した。)カートライトは平均20分にも満たない出場時間で先発としてあまり結果を残す事が出来ず、2月には背中下部の痛みで18試合も欠場した。

それでもブルズは9勝2敗のスタートを切り、オールスター戦の時点で35勝17敗の成績を誇った。オールスター投票ではジョーダンとピッペンが1位2位のワンツーフィニッシュでブルズの絶大なる人気を証明した。後半戦は22勝8敗で最終的には57勝25敗とし、シカゴは4年連続50勝を達成した。このシーズンを「単調だ」と常に説明していたジョーダンの発言を考えると、57勝もあげたことは奇跡に近かった。その退屈さにも関わらず、ジョーダンは平均32.6得点で7年連続得点等に輝き、ウィルト・チェンバレンが持つNBA記録に並んだ。

しかしそれでもシーズンはブルズファンが慣れ親しんできた圧倒的なレベルには達しておらず、シカゴがシーズン最後の5戦で3敗した事によりライリーのニックスが60勝22敗でブルズの上に立ちプレイオフでのホームコート・アドバンテージを奪われた。

フィル・ジャクソン「このシーズンは削り合いになる事はわかっていた。どんな手段で挑もうと、3連覇を目指すということは精神的にも肉体的にもすり減る作業になる。とにかくその時出来るベストをつくし1日1日を別物として挑み続けた。」

ピッペン「厳しかったよ。どんなシーズンになるかは予想すら出来なかった、特に僕とマイケルはオリンピックにも出場していたからね。2度優勝を経験してそれがどれくらいチームをすり減らすかわかっていた事は多少の足しになったが、休息のないバスケットボール続きの日々に準備万端になるのは無理だったね。」

シーズン終盤の停滞はプレイオフ最初の2ラウンドではまるで感じられなかった。どちらもブルズがスウィープし、東準決勝では第4戦にジョーダンがまたもやブザービーターで決めた。

しかし次はマディソン・スクウェア・ガーデンで開始するニックスとの東カンファレンス決勝が待ち構えていた。ニックスはホームコート・アドバンテージだけではなく、前年にシカゴ・スタジアムで第1戦を勝利する番狂わせをおこしており、昨年覇者にも怖じけづかないという気概を持ち合わせていた。

MSGで開幕する事はブルズにとって厳しいものとなり、遅くなってシカゴのオフェンスと張り合い、バッド・ボーイズさながらのプレイスタイルでブルズをいたぶり続けた。最初の2戦を落としたシカゴは、ジョーダンが特に影響を受けた。59本中22本しかシュートが決まらず、第2戦前の晩にアトランティック・シティー(カジノで有名)に行っていた事が報じられメディアから大バッシングを受けていた。ブルズは1試合も負けられない所まで追いつめられたわけではなかったが、今シーズン2連敗以上を喫した事がないニックス相手には非常に先行きが暗い状況に陥った。

しかし予想通りブルズはホーム2連勝でシリーズをタイへと持ち込んだ。しかしもっとも英雄的(そして恐らく1992-93シーズン最高の)試合はMSGで行われた第5戦、ブルズの97-94のアプセット勝利だった。ジョーダンは29得点14アシスト10リバウンドのトリプルダブルを記録し、ピッペンはゲーム終盤にディフェンシブ・ヒーローである事を証明した。最後の10数秒の間に逆転を狙うニューヨークのチャールズ・スミスを2度もブロックし、208cmの長身を誇るフォワードのレイアップを凄まじいディフェンスで数回のエアーボールへとかえさせた。

第5戦で劇的な敗戦はニューヨークからハートをきざみ取り、シカゴのホームでの第6戦勝利はもはや付け足しにすぎなかった。しかしシカゴの次の、そしてミネアポリス・レイカーズとボストン・セルティックスに次ぐ3連覇達成への最終ステップもアウェイでの開始だった。相手はシーズンリーグ1位の成績を誇るフェニックス・サンズだ。

チャールズ・バークレー 1992-1993年
Andrew Bernstein/NBAE/Getty Images

ニックス相手に4連勝したブルズは、フェニックスで2連勝し3連覇に向けてスウィープしてしまうのではないかと思われた。NBAファイナルの最初の2試合でアウェイチームが連勝したのは史上初の事だった。次の3試合でシカゴで行われる事から、ブルズが2年連続でホームで優勝(そしてもちろん3連覇)する事はもはや確定事項かのように扱われた。

しかしフェニックスは当然その様に考えてはおらず、第3戦の3度延長にもつれこむ激戦を129-121で制し、後の無い第5戦を108-98で勝利しなんとか生き延びた。第4戦に55得点しブルズを勝利と3勝1敗のシリーズリードに導いたジョーダンはチームメートに、フェニックス行きの荷造りはしておらず次の試合で負けた場合は行かないとまで伝えていた。しかし第5戦の敗戦し、バークレーが天と会話した事を話をした事で(「優勝する事が我々の宿命だと信じている。1勝3敗であったことなんて関係ない。神は我々に優勝して欲しいんだ。昨夜彼と喋ったんだよ。」)、MJは考えを変えた。

ピッペン「誰も信念を失うことは無かったよ。皆に行かないよなんて行ってたいたマイケルはすぐさま飛行機に乗り込み”やあチャンピオン達よ!”って大声で挨拶したんだ。彼はまだ信念を持っていた。そしてそれがチーム全員に信念を持ち続ける事の助けになったんだ。」

パクソン「あのチームには何人かの素晴らしいリーダーがいた、選手やコーチング・スタッフ、誰にも負けないようなね。ただチームとしての在り方はマイケル・ジョーダンから作り出されるものが圧倒的だった。とても厳しい状況ながらも彼はチームの雰囲気を作り、何に集中すべきかを定めてくれていた。」

1998年の6度目の優勝を決めたジョーダンの最後のシュートを除けば、フェニックスでの第6戦にパクソンが決めた決勝スリーほどブルズにとって伝説的な決勝の瞬間は無いだろう。それのお膳立てとなったのは、第7戦を目前としてブルズの冷静さと、プレッシャーに圧し潰されたフェニックスだった。

残り1分を切った時点でブルズは98-94とリードされていた。サンズのミスをリバウンドしたジョーダンはそのまま邪魔される事無くフルコート近くをドライブしレイアップを決めた。次のサンズのポゼッションでシカゴは守備のプレッシャーを上げ、追い込まれたフェニックスはショットクロックのブザーが鳴り響く中スウィングマンのダン・マーリーのエアーボールを放つことしかできなかった。フェニックスにとってはここ7本のシュートで6本のミスとなり、残り14.1秒でブルズは同点の、又は逆転のチャンスを得る事となった。

ジョン・パクソンのスリー
Andrew Bernstein/NBAE/Getty Images
シカゴ最後のポゼッションは素晴らしく利他的でクラッチなプレイの成就であった。ジョーダンがアームストロングへインバウンドパスを出し、ボールはまたMJの手に戻り、最後の1on1プレイの仕組んだ。しかしフルコート・プレッシャーを受けていたジョーダンはスリーポイントライン手前にいたピッペンにパスを出し、なんとかフリーになろうとするもなる事は出来なかった。ピッペンはレーンの中にドライブを仕掛けたがサンズのセンター、マーク・ウェストが立ちはだかっていたためゴール下に向かっていたグラントにパスを出した。ここまで5本全てのシュートを外していたグラントはまたミスをしてしまう事を疑いシュートせずにスリーをオープンで打てる位置にいたパクソンにパスを出した。コート逆側にいるアームストロングが喜びでコートに倒れ込み、シカゴのベンチにいたトレント・タッカーは既に喜びで飛び上がっているいる中パクソンはシュートを放った。ベテランのロングシュートは見事に決まり、ブルズが99-98と逆転した。

ジョーダン「パックスの手にボールが渡った時点でもう決まったと確信していた。」

パクソン「ただボールを受け取ってシュートしただけだよ、これまで通りにね。子供の頃からそれが僕のプレイだった。家のドライブウェイで何千回も同じシュートを打って来た。考える必要なんてなかった。反射的に打っていた。」

パニックを起こしていたフェニックスの守備はこのポゼッション中パクソンを常にオープンにしてしまっており、グランドがパスを出した時点でパクソンをカバーしていたダニー・エインジは20フィート近く離れていた。

サンズのポール・ウェストファルHCも「全ての子供が夢見るシュートだ。ジョン・パクソンはその夢を現実にすることが出来た。」というコメントを残しパクソンへ敬意を払った。

フェニックスはまだ最後のポゼッションが残っていたが、ケビン・ジョンソンのドライブをグラントがブロックし勝利を確約した。

ジョーダンは3年連続でファイナルMVPに輝き、1967年にリック・バリーが打ち立てた決勝平均40.8得点を41.0得点で打ち破った。スーパースターは3連覇を成し遂げる事は「これまでで最も困難が事だった」と認めた。しかし頂点にいるまま試合を去るつもりは無く「自分のバスケへの愛情はまだとても強い」と述べていた。

しかし4週間後の父の殺人事件でジョーダンの考えは変わってしまった。10月上旬に始まる1993-94シーズンのトレーニング・キャンプ前日にジョーダンはNBAからの引退を発表した。この予想外の出来事は2シーズンほどブルズに方向転換を余儀なくされた。その後充電されたジョーダンがコートに復帰し、ピッペンと共にほとんど違うメンバーを2度目の3連覇へと導くこととなる。

元記事:1992-93 Chicago Bulls: Three the hard way|By Brett Ballantini

6 コメント

  1. 「2度の3連覇」というのがブルズ黄金期を振り返る上であまりにも当たり前のキーワードになってしまっていましたが、
    普通に考えて1度目3連覇ですらとんでもない快挙なんですよね。
    今まさに2連覇へ険しい道を強いられているヒートを目の当たりにしていると、
    本当に実感します。
    私はリアルタイムでは当時を知らず、DVDなどで試合を振り返るだけなのですが、
    パクソンのスリーは知ってはいたものの、試合の流れで観たときに思わず声が出ましたw
    当時を知らない人の印象では、どうしても「ブルズが圧倒的に強かった時代」という感じになりがちですが、
    とんでもない、サーチャールズ率いるサンズ、バッドボーイズピストンズ、名称パット・ライリーのニックスなど、
    今の時代でも見劣りしないくらいの精鋭ぞろいですよねw

    ブルズファンとしては、今現在、当時を古き良き時代として懐かしむだけでなく、
    当時に負けないくらいのダイナスティーを築く可能性を感じるチームになりつつあるのが、
    一番嬉しいことですね。
    シボドー政権でのブルズ王朝第2章に期待したいです^^

    • ろっくさん、いつもコメントありがとうございます。
      そうなんですよね、さも当たり前かのように語られてしまっていますが
      1回3連覇することって本当に大変なんですよね。
      記事を書きながら当時の事を思い出していましたが
      ニックスやサンズなどタフなチームが本当に多かったです。

      パクソンのスリー、あれ流れで見るとすごいですよねw
      あと記事にでてくるニックス戦のピッペンのブロック乱舞も凄まじいです。

      シボドー政権でのブルズ王朝!ぜひみたいですね!

  2. 当時の私はNBAに関心がなかったので、ブルズとMJのことを一般常識程度にしかおぼえていません。
    そんな立場でコメントするのも、気が引けるのですが、世間話と思って読み流していただけたらと思います。
    真っ先に、1992-93のサンズ戦~PO中にWOWOWで観した「伝説の引退」シリーズ・バークレーの回を思い出しました。
    もちろん主役のバークレー側からの構成でしたが、こちらのブルズ側の記事を読んで番組内容への理解が一段深まった気がします。
    偉大な記録を残しながらリングを手にすることなく引退を余儀なくされたバークレー。
    彼の前に常に立ちはだかっていたブルズ~MJの存在の大きさ。
    現在のレブロン以上に、MJと比較されることの苦さを噛みしめてきたのはバークレーなのかもしれません。

    それともうひとつ。
    昨年ツイッターである方が企画したファイナルMVP予想クイズ、幸運にも優勝した私。
    景品にシカゴブルズ5度目の優勝記念のシリアル番号入りピンバッジセットを頂いたのですが…
    実は今日までそのありがたみがよく解っていませんでした。
    引き出しの奥から取り出して、いま机の上に置いて眺めています。

    こんな私でよかったら、またコメントさせていただきたいと思いますが・・・

    • ロメロさん、コメントありがとうございます。
      バークレーの特集なんてやってたんですね!見たかったです。
      バークレーのサンズ、ユーイングのニックス、マーク・プライスのキャブス、オラジュワンのロケッツ、ストックトン・マローンのジャズ等々、いい感じにスターがばらけてて猛者ぞろいでしたね。それらを全部蹴落としていつも彼らにリングを渡さなかったジョーダン率いるブルズ、っていう構図でした。
      バークレーは親友でありながらも常に優勝への障害になっていたMJという関係でとても面白かったです。いつも、お互いリスペクトしてるけどコート上では別だからなっていう感じの試合でした。ユーイングとの関係性もそれに似ていますね。

      優勝記念ピンバッジセット!羨ましい限りです。ぜひ家宝にしてくださいw

      ぜひ、いつでもコメントしに遊びにきてください!誰彼かまわずNBAの話が出来る場を作りたかったので、こうして色んな人に書き込んでただけているのがとても嬉しいのです。

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